僕が最初の就職先をやめるまで人生の優先順位のなかにまったく入れていなかったものがあります。
これが僕の今生の人生における大失敗といってもいいかもしれません。
それはお金です。
地獄の沙汰も金次第というように金さえあればたいていのことはできてしまいます。
原始社会では獲物を狩る能力だったり腕力だったりしたのでしょうが、文明社会ではお金がその代わりになります。
愛はお金で買えないといいますが、逆に言えばそれ以外はたいていなんでも買えてしまうともいえるでしょう。
もっと言えば結婚するのに相手の経済力を考えない女性はあまりいないでしょう。
ということはお金の人生においての優先順位は命や健康の次ぐらいに高いのです。
それなのに、それなのにですよ、僕は金に対してまるで無頓着だったんです。
儲けたい、金が欲しいという意識がまるでなかった。
そうなるとどうなるでしょう。
よほどの高スペック人間かお金持ちとかの高環境に生まれついていなければ、貧乏確定です。
こういうことです。
知能指数が標準並みであるにもかかわらず、勉強を怠けて何もしなければ成績はびりになるってことです。
スポーツとかの才能がない限りは、勉強しなければ給料の低い仕事しか与えられません。
ということは得られるお金も少なく貧乏生活を余儀なくされるってこと確定ってことになります。
快適な人生を送るにはそれなりのお金は絶対必要です。
自己分析でなぜこうなってしまったかを考えてみますと、まず第一に僕にはなぜかもともと物欲が少ないという特質があったことです。
それから親が教員(公務員)で金持ちではないが食うに困るなんてことはなかったってこと。
お金の心配なんてしたこともなかったですから。
金銭に細かいことをよく思っていなかったような節がある。
飲み会後の割り勘するときに1円単位で分けるのをよく思わなかったり。
江戸っ子でもないのに宵越しの銭は持たねえみたいな感じがあったり・・・・。
でも生真面目なところもあって投資はギャンブルだと思い嫌悪していた。
おかげで普通のギャンブルにも近づくことすらなかったけど。
ゆえにそうじてお金はさほど大事ではない、普通に会社に入って稼げる程度あれば十分という認識だった。
もっといえば社会はそこそこ平等だと思い込んでいたようです。
外国に攻め込まれても警察が守ればいいというお花畑の人たちのように僕の脳内もお花畑だったようです。
そんな僕が会社をやめたとたん低賃金の荒波にもまれることになりました。
お金の大事さや必要性を身に染みて感じることになったのでした。
そしてそのことが僕のコスト意識やミニマル意識に火をつけたといってもいいかもしれません。
以前の僕はコスト意識のかけらもない本当に無駄人間でしたから。
自分でも驚きます。
普通はちょっとでも給料の高い会社に就職したかったり、給与の高い仕事を目指したりってするもんじゃないですか?
スキルアップのため資格をとろうと頑張っている人もいる。
親父が先生だから僕も頑張れば教師になるのにちょっとは有利だったかもしれないし、なれたらお給料もボーナスなんかもちゃんとあったりしていて安定していたかもしれない。
それなのに親父がとにかく嫌いで教師だけはごめんだという感情だけが先走り全否定していた。
おかげで息子であるという多少の有利さも親戚の子に対して使われ、見事先生になったという落ちまでつきました。
今考えれば親父を利用すればこっちのものって考えにまったく至らなかった。
芸能人でも親の名前を借りるのは絶対に嫌だって言う人もいるけど、借りれるものは借りたほうが得である。
そのあとは自分の好きなようにやればいいだけだから。
所詮自分の人生である。
利用できるものは利用したほうがいいに決まっていますから。